4884710665.01._SCMZZZZZZZ_.jpg日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 / 深田 匠
第四章 米国の国際戦略
米国二大政党の異なる対日関係史 P.294-314

 過去の歴史を鑑みるとABCD包囲網・石油禁輸・真珠湾謀略・原爆投下・東京裁判・占領憲法押しつけなど、これらは全て民主党政権下で行われている。1932年の大統領選挙で共和党のハーバート・C・フーバー大統領が民主党候補フランクリン・D・ルーズベルトに破れて以来、1953年にアイゼンハワーが共和党大統領に当選するまでの実に20年間に渡り、民主党が政権を握り続け共和党は野党となっていた。そして開戦を目的とする日本への圧力も、日米戦争も日本占領政策も、全て20年間の内に行われた。

 反共主義者であるフーバーはソ連の国家承認を拒み「日本はアジアにおける防共の砦」と常々口にしていたが、政権が交代すると1933年1月に発足間もないルーズベルト政権は共和党の反対を押しきってソ連を国家承認した。ルーズベルトが掲げた看板政策ニューディールとは「新しい巻き返し」の意味で、通貨管理や価格統制、労働者の最低賃金や最長労働時間の法的保証、、労働組合の拡大促進、高所得者層への大幅減税(所得税最高税率75%、相続税最高税率80%への引き上げ)、その他様々なマルクス主義的要素を採り得れたもので、当然ながら共和党は猛反発していた。米最高裁も価値統制や高所得者懲罰税制を違憲と判決したが、当時大不況下の米国ではニューディール政策をめぐって世論が二分化されていったのだ。そして「ニューディール支持=親ソ容共=民主党」と「ニューディール反対=反ソ反共=共和党」という二大勢力が対立する中で、前者は日本を敵視し後者は日本に理解を示すのだが、それはすなわちアジアの「防共の砦」に対する認識差に他ならなかった。

 日本占領時代については、朝鮮戦線をきっかけとして1950年頃からGHQ内部における両党の影響力逆転が起こったが、民主党が主導する占領前半期の間に東京裁判や憲法制定その他の「日本弱体化」占領政策が実行されてしまったのだ。GHQの民政局や民間情報教育局はニューディーラー(ルーズベルトのニューディール容共政策の支持者)と呼ばれる民主党左派で占められており、マルクス主義に憧れるニューディーラーたちは、階級闘争史観に基づいて「日本悪玉史観」を宣伝するウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを実施し、ニューティーラーのスミス民間情報教育局長らの執筆による『太平洋戦争史』の新聞連載や『真相はこうだ』『真相箱』なるラジオのプロパガンダ放送で日本国民の洗脳を図った。さらに財閥解体・農地解放・共産党員釈放・共産党系労組の結成促進などマルクス主義的政策を続々と行い、例えばGHQ民政局が「労働組合組織をつくるための準備委員会」の委員に選任した15人の日本人の内の実に13人が日本共産党員であったくらいで、これはもう容共というより正に共産主義化そのものであった。1988年に竹前栄治東京経済大教授の取材に対して元GHQ民政局長C・ケーディスは、「共産党議長の野坂参三さんとは、よく話をしました。彼は私のオフィスにやってきて、党の方針を話してくれましたし、私も彼らがどのような考えや政策を持っているかを知って大変ためになりました。と語り、野坂を首相にしたらどうかという会話があったことも告白している。

 米本国では反共の共和党の目が光っているためにアメリカを共産主義化できずフラストレーションを溜めたマルクス主義者たちは、こうして日本で念願の「マルクス主義の実験」を存分に始めたのである。マルクス主義では君主制を完全否定する。そこでワシントンの民主党親ソ派の指示で、ニューディーラーによる天皇訴追の画策に対してストップをかけたのが共和党であり、共和党員マッカーサーに対してそれを阻止するように指示したのだ。またマッカーサー自身も、「自分が戦争の全責任を負い、身はどうなっても良いから国民に食糧を配給してほしい」と言われた昭和天皇に感銘を受けており、側近に対して「天皇を処刑することは、イエス・キリストを十字架にかけることと同じだ」と述べたことが記録に残っている。伝統的保守主義者のマッカーサーもまた、英王室や日本の天皇を敬うメンタリティが根底にあったのであろう。それは歴代米大統領を見下すほどに尊大な性格のマッカーサーが、1957年に園田直代議士及び加瀬英明氏との会見で、「私が世界で最も尊敬する人物は(昭和)天皇陛下だ」と述べていることからも伺える。

 そもそもマッカーサーは当初は、真珠湾攻撃における宣戦布告の問題だけを取り上げる簡易軍事裁判を想定していた。もしそのような裁判であれば、怠務から日本政府の指示した宣戦布告手交時間を遅延させた当時の在米外交官だけが裁かれ、逆にいえば「不意打ち」という国際的な誤解もなくなっていたことであろう。なお共和党は「平和に対する罪というものは存在せず、捕虜虐待などの国際法違反のみに限定するべきだ」と主張していたが、「平和に対する罪」で日本という国家全体を断罪するように命じたのは当時の民主党政権であり、GHQの占領政策においてはニューディーラーである民政局のC・ホイットニー局長やケーディス局長らが、政治経済に疎いマッカーサーを巧妙にコントロールしていたのだ。従って共和党は今でも日本を「侵略者」とは考えず「先制攻撃をした国」だと捉えており、さすがに公言はしないものの東京裁判には懐疑的な立場を取っている。

 なお、このGHQニューディーラーの多くは、「日本で共産党の政権奪取の計画を米国政府職員として積極的に援助した」として、1950年代前半に米下院の非米活動調査委員会(HUAC)で査問にかけられ公職追放されている。一例だけ挙げると、戦犯のリストアップや共産党員の釈放を担当したGHQ調査情報部調査分析課長E・ノーマンは、「日本軍国主義の根絶」を呼号して日本軍人を片っ端から戦犯に指定していった人物だが、FBIから「ソ連のスパイ」として追求され、米上院司法委員会の再査問を控えた1957年4月に自殺している。つまり5千人以上の共産党員を釈放する一方で、反共の軍人・政治家・官僚・教師・その他合計20万9千9百人をことごとく公職追放したのはソ連の意図であったということだ。

 日本の現憲法は、1946年1月7日に米国の国務及び陸海軍の三省調整委員会(SWNCC)が作成しGHQに通達した「第228文書」(通称「改憲調令」)によって制定が指示されたものであるが、SWNCCの中心であった当時の米国務省は親ソ派マルキスト主義者の巣であり、憲法執筆者にはマルキストばかりを選んでいる。GHQ憲法の執筆者の一人である親ソ派ニューディーラーのゴードン女史は、憲法草案を作成するためにソ連憲法や社会主義的なワイマール憲法を参考にしたことを認め、自伝の中で「1918年に制定されたソビエト憲法は私を夢中にさせた。社会主義で目指すあらゆる理想が組み込まれていた」とマルクス主義への憧れを吐露してもいる。例えば日本国憲法のの第25条(生存権)や第27条(勤労の権利及び義務)は、ソ連のスターリン憲法を丸写しにした文面であり、資本主義国の憲法でこれほどマルクス主義的な要素を取り入れた内容のものは他に1つもない。さらにGHQ憲法草案に設けられていた第36条は「土地及び資源などを全て国有化し、不動産の私的所有は認めず、個人の現有不動産は国からの貸借とする」という趣旨の完全な共産主義条項となっており、これはさすがに日本側も「アカ条項」と呼んで抵抗し、マッカーサーも削除を命じたぐらいであった。このように現憲法は「日本弱体化」のみならず、ソ連に憧れたニューディーラーによって「日本の社会主義化(ソビエト化)を目的にして執筆されたものであり、前述のごとく日本が疑似社会主義国になったのも憲法の下では当然の結果である。

 一方、GHQ内部でこの民主党ニューディーラーと厳しく対立していたのが、反共主義者の共和党員であったチャールズ・A・ウィロビー情報部長であった。当時GHQの内部には二つの路線対立があり、国務省系のGS(民政局)は占領内政担当で民主党左派すなわちニューディーラーによって構成されており、国防総省系のGⅡ(情報治安局)は軍務担当で共和党員が中心になっていた。このGSとGⅡが激しく対立していたのである。民主党の影響下にあるGS(民政局)は日本をマルクス主義化する実験と併行して「ウィークジャパン(弱い日本)をつくる」と主張しており、一方GⅡのウィロビー少将はニューディーラーたちが日本を左翼国家へ改造しようとする「実験」に強く反対し、「不必要なまでの日本の弱体化は国際共産主義を利する」と考えてストロングジャパン政策を主張していた。対ソ戦略のためには「強い日本」を維持させねばならないというのが、ウィロビーら共和党反ソ派の持論だったのだ。

 ウィロビーは「共産主義分子の総司令部への浸透」という調査報告書を作成し、ゴートン女史を始めコーエン、ハドレー、ビッソンその他多くのGHQ民政局・民間情報教育局・労働課等の職員が後に査問を受けることになる証拠を収集した。またウィロビーは、民政局員のグランダンツェフとキーニーの2人については「KGBのメンバーであることが確認された」と国防総省に報告して逮捕を要求してさえいる。つまり米本国同様にGHQの中でも、反共と容共(及び共産主義者)との戦いが展開されていたのだ。ちなみにこの民主党のウィークジャパン戦略と共和党のストロングジャパン戦略は、日本の主権回復以後もアメリカ本国で伝統的に継承し、前章で述べたような今もなお両党のその姿勢は変わっていない。

 GHQ内でウィークジャパン政策の急先鋒となったのがマルクス主義者のケーディス民政局次長であり、ウィロビーら情報治安局の唱えるストロングジャパン政策を抑えこんで憲法制定や諸々の日本弱体化政策を強行し、一方ウィロビーは「GSはアカの巣だ」と公然と批判を続けた。このGHQ内部のGSとGⅡの対立はさながら民主党と共和党の代理抗争の様相にあったが、政権与党の民主党系GSが実権を握る状態が続いていた。しかしソ連の脅威が増すにつれてトルーマンがルーズベルト流容共路線からソ連対抗路線へと転向していき、ニューディーラーたちは疎んじられて段々と実権を失い始め、共和党は日本国内のレッドパージをGHQに要求して一部を実行させることに成功した。やがて1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、米軍が中ソ軍と衝突したことを契機にさしものマッカーサーも目が醒めたのか、GHQの実権はGS民政局ニューディーラーたちからGⅡ情報治安局の反共軍人グループへと全面的に移行することになった。

 マッカーサーが戦争放棄を盛り込んだ憲法をつくらせたり、その一方で自らその憲法を否定する存在たる自衛隊(当時は警察予備隊)を創設させたり、また共産党員を釈放させたりレッドパージをしてみたりと、どう見ても一貫性のない矛盾する占領政策を行ってきたのは、ケーディスら民主党とウィロビーら共和党との綱引きがGHQ内部に存在していたことが、その理由の全てである。(なおマッカーサーは1950年5月に幣原衆院議長に対しヌケヌケと「日本は一切の武力を放棄すると言われたが、今日の世界情勢から見ると、それは何とも早すぎたような感じがする」と述べている。)

 ちなみにこのウィロビー(退役後は共和党系キリスト教団等を主宰)と親しかったのだが、反共主義者のローマ教皇使節代理であり靖國神社焼却に反対したビッテル神父だ。ビッテル神父の「靖國神社を焼いてはいけない」という主張をウィロビーらGⅡは支持し、自らも軍人であるマッカーサーもその意味を理解したのか、「焼却せよ」と主張していたケーディスら民政局に焼却禁止を命じた。靖國神社を守ってくれたのはビッテル1人ではなく、それを支持したウィロビーら共和党系の軍人たちのおかげでもあるのだ。

 東京裁判オランダ代表判事レーリンクは自著の中で、ウィロビーとの会話として「ウィロビーは私に、この裁判は史上最悪の偽善だと言いました。彼は私に、こういう種類の裁判が開かれたことで自分は息子に軍人になることを禁じるだろうとも言いました。彼は、日本が置かれたこのような状況下では、日本が戦ったようにアメリカも戦うだろうと述べました。(小略)日本には2つの選択肢しか有りませんでした。戦争をせずに石油備蓄が底をつくのを座視し、他国の情けにすがるだけの身分に甘んじるか、あるいは戦うかです。そんなふうに生存のための権利が脅かされれば、どんな国でも戦うだろうと彼(ウィロビー)は言いました」と記している。また同盟通信元編集局長の松本重治氏は、当時にマッカーサーの高等副官フェラーズ推奨(共和党員)に「戦争を始めたのは日米どちらか」と質問したところ、フェラーズが「ルーズベルトが戦争を仕組んだのだ」と怒号したことを紹介しておられる。このようにGHQ内部でも共和党系と民主党系は日本に対する方針や認識を異にしており、ときのアメリカの政権が民主党であったために、結果としてGHQの占領政策の大半はニューディーラーに主導されていったということである。私は前章で「アメリカは二つ存在している」と述べたが、本章では「GHQは2つ存在していた」ということも強調しておきたい。

 日米開戦に先立つ前の時期、共和党は日本よりもソ連を警戒しシナの共産化を怖れており、日米開戦には否定的な主張をしていた。当時、共和党のフーバー元大統領は「ソ連を助けて参戦することは、共産主義を世界に捲き広げることになる」と主張し、真珠湾攻撃に至るまでは共和党議員のほぼ全員が対日戦争に強く反対しており、「対日圧力を中止せよ」と民主党のルーズベルト大統領を批判していたのだ。大統領時代にフーバーは、満州事変に対して「日本に経済制裁を加えよ」という民主党やヘンリー・L・スチムソン国務長官(共和党員ながら容共・親中反日であったために、後のルーズベルト政権でも陸軍長官に起用)の主張を一蹴している。また1932年10月の閣議においてフーバーは、ソ連によるシナ赤化工作を警戒して「アメリカは日本と久しく深い友好関係にあったし、日本の立場をも友好的に見なければならない」という覚書を提出し、満州事変は日本の正当な治安維持措置であり日本は共産主義の防波堤だと力説している。共和党大統領予備選をフーバーと争ったロバート・A・タフトやA・バンデンバーグなども「不参戦」「対日圧力反対」を訴えており、従ってもし1932年の大統領選挙で共和党が勝利してフーバーが大統領であったならば、対日圧力もなく日米開戦に至らなかったことは確実だ。

 しかし残念なことに満州事変の翌年、1932年11月にルーズベルトが大統領に当選し、1933年3月の就任以降、1945年にルーズベルトが病死するまで3期連続してルーズベルトが大統領を努めることになり、民主党政権の親ソ反日傾向は日を追うごとに加速していった。正しい対日観を持っていた共和党の唯一の失敗は、ルーズベルト「不参戦」公約を信用した為に、ルーズベルト3選を賭けた大統領選挙において、共和党候補者W・ウィスキーが「参戦か不参戦か」を争点にしなかったことにある。もしルーズベルトが国民に嘘の公約をすることに抵抗を感じる人物であって「参戦」を公約していたならば、共和党が勝利していたことは確実であった。

 日米開戦前の米世論を代表する発言を幾つか紹介してみると、例えば大西洋無着陸横断飛行で国民的人気のあったC・リンドバーグは、1941年9月16日の共和党の演説大会で「もし世界大戦が起こるのならば、その責任はルーズベルトとチャーチルと国際ユダヤ資本にある。米国は英独講和を介し、日英独と組んでソ連と戦うべきである」とまで主張していた。また当時共和党に対して影響力の有った有名な保守系ジャーナリストのジョーン・B・レイは、シナに32年間も在住してシナ情勢をワシントンへ発信していた人物だが、このレイは「〝軍国主義日本が世界平和の脅威になる〟というのは、ソ連の宣伝であり、本当の軍国主義はソ連である。これまでアジアで果たしてきた日本の役割を忘れてはならない。シナやソ連に同情するあまり、日本を孤立化させて発展を阻害してはならない。日本こそアジア安定の礎であり、共産主義の防波堤だ」とベストセラーとなった自著で述べている。

 熱心な反共主義者にして反ルーズベルトを呼号していた新聞王W・ハーストも、1941年10月に自紙のニューヨーク・ジャーナル紙に「ワシントンはアジアで戦争が起こるか否かは日本にかかっていると言っているが、これは真実ではない。米国の政策如何によるものである。支那事変の発生以来、米国は負け犬に対する同情でシナを援護してきた。日本が米国に戦いを挑んでいると見るのは誤りである。世界で3番目の上顧客である日本との貿易を断絶したのはルーズベルト政権ではないか。日本は米国に何ら差し出がましいことをせずに脅威を与えていない。米国が日支両国との通称を正常に戻し、シナと日本のことは両国にまかせておけば、明日にも平和が来る」と自ら執筆し、ハースト系の各紙は同様の主張を何度も掲載していた。ルーズベルト政権が行ってきた排日政策や対日禁輸などの対日圧力は、米国世論の総意では決してなく、共和党支持層はそれに猛反対していたというのが当時の米国の国情だったのである。

 1941年における米ギャラップ社の米国世論調査では、「英国に味方して参戦せよ」が2.5%、「英国の配色が濃くなれば支援せよ」が14.7%で、この両方を合わせても「中立で英独相応に武器を売れ」の37.5%を下回っている。そして「絶対中立で武器も売るな」が29.9%、中には「ドイツに味方して参戦せよ」という回答さえも一定数存在していた.つまり明確に参戦を望んでいた米国民は実に2.5%しか存在しておらず、従ってフーバー以降も共和党政権候補は「不参戦」を公約し、本心では参戦したくてたまらなかったルーズベルトも表向きは「不参戦」を公約せざるを得なかったのだ.共和党のバンデンバーグ上院議員は「不参戦を議会で正式に議決せよ」とルーズベルトに要求し、アメリカの参戦を警戒するドイツもルーズベルトの様々な挑発絶対乗ってこなかった。そこでルーズベルトはドイツの同盟国であり満州権益でも目障りであった日本がアメリカを攻撃すれば、米国民を納得させる形で参戦できると考え、いわゆる「裏口参戦」の計画を進めたのである。アメリカから宣戦布告する「表口」ではなく「裏口」から戦争に入ろうという訳で、そのため日本から最初の一発を撃たせるべく様々な対日圧力を重ねる謀略をもって追い詰めたのだ.ルーズベルトは大統領就任後の初閣議で「対日戦争は1つの可能性だ」と発言していたぐらいであり、側近たちと連日「どうやれば日本側から開戦させられるか」を討議していた。

 20万部以上の膨大な公文書を調べた米ジャーナリストのロバート・B・スティネットは、「ルーズベルトが側近たちと示し合わせて(小略)アメリカを戦争に介入させ真珠湾及び太平洋地域の諸部隊を戦闘に叩きこむべく、明らかな戦闘行為を誘発する為に計画実施された権謀術数の限りを尽くした措置」を進め、「日本を挑発するためにルーズベルトに8つの手段が提案され、彼はこれらの手段を検討してすぐに実行に移し、8番目の手段が実行されると日本は反応してきた」と述べている.この8つの手段とは、米海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが作成した「対日戦争挑発項目A〜H」のことであり、例えば項目Cは「蒋介石政権への可能なかぎりあらゆる手段を尽くした」(R・B・スティネット)のであり、日本は7番目の挑発まで耐えに耐えたのである。戦時中の1944年6月20日に、英リットルトン生産相が「米国が世界大戦に巻きこまれたというのは歴史の歪曲である.米国があまりにひどく日本を挑発したので、日本軍は真珠湾攻撃のやむなきに至ったのだ」と述べ、米国の抗議を受けて下院で陳謝しているが、米国の同盟国の閣僚が同情するぐらい日本への圧力は不当なものであった。

 米国の通信傍受責任者であったJ・ロシュフォート無線監視局長は1941年7月に「我々は彼ら(日本)の資金も燃料も断ち、日本をどんどん締めあげている。彼らには、この苦境から抜け出すには、もう戦争しか残されていないのが分かるだろう」と同局のミーディングで述べている.「日本の連合艦隊がハワイへ向けて発進」との報告を受けたルーズベルトは同年11月25日には「真空海域命令」(太平洋を横断する船舶の航路となる北太平洋から米国及び連合国の全船舶を引きあげを命じるもの)を発しており、この命令は日本の連合艦隊の南雲機動部隊が単冠湾を出航した1時間後に早くも発令されたものである.かくて同年11月27〜28日にかけて、ルーズベルトはついに「米国は日本が先に明らかな戦争行為に訴えることを望んでいる」という直令を米軍首脳部に発し、一切の情報をハワイの指揮官キンメル大将に伏せるよう指示した。参戦したいあまりに自国将兵をわざと見殺しにしたルーズベルトの冷酷な策謀も、そして「対日戦争挑発項目A〜H」の存在も、さらにはハルノートさえも、実は共和党側には一切秘密にされており、その秘密を知っているものは政権トップと民主党要人・軍情報部などごく一部だけでしかなかった。こうして日本はルーズベルトの謀略に導かれるままに、12月8日(米時間7日)に真珠湾に先制攻撃を加えることになる。

 このルーズベルトの真珠湾謀略に関して、戦後すぐに議会で追求したのは共和党である。共和党は、ルーズベルト政権の対日謀略について査問するために調査委員会の設置を要求し、8つの調査員会を設けさせた。そして共和党系の調査委員は全て「ルーズベルトが開戦目的で不必要に日本に圧力をかけて追い詰めた。明らかに公約違反である」という結論を出し、逆に民主党系の調査委員は当然ながら全てルーズベルトを擁護する結論を出した。結果、日本にとっては残念なことながら当時の米議会は民主党が多数派であった為に、ルーズベルトは査問を免れた。さらにルーズベルトは「対日戦争挑発項目A〜H」の存在を共和党に隠し通すために、腹心の部下5名からなるロバーツ調査員会を設けて「全責任は真珠湾防衛の任務を怠ったキンメル太平洋艦隊司令長官とショート陸軍司令官にある」と公表させ、この欺瞞にはリチャードソン元太平洋艦隊司令官が「これほど不当で不公平で嘘で塗り固められた文書を私はこれまで見たことがない」と抗議声明を出したぐらいである。

 共和党の調査は政府によって徹底的に妨害されたために、上下院合同調査委員会で共和党のO・ブルースター上院議員は「証拠文書が大量に破棄されたり提出が阻害され、政府が選んだ証人はまったくインチキの証言ばかりしている。ルーズベルトは国家に対して詐欺を行った犯罪者だ」と怒号しているが、これは後の1993年に米国立公文書館真珠湾課担当官R・デーンホフの「1945年〜1946年の調査の前の段階で、海軍公文書記録から真珠湾攻撃に関する大量の記録が抜き取られ消失してる」との証言で裏付けられた。ルーズベルト死去の報を受けたマッカーサーが「嘘が通ると見てとれば、絶対に本当のことを言わない男が死んだ」と述べたように、嘘と陰謀に明け暮れたルーズベルトのあまりの卑劣さに、たとえ対日戦争の直後といえども共和党は憤慨してその謀略を強く追求したのである。なお、この共和党の主張は、C・A・ビーアドやJ・トーランド、C・タンシル等々といった米国レビジョニスト(歴史修正派)とその系譜を継ぐ歴史学者たちによって「ルーズベルトの真珠湾謀略」として今なお歴史の見直しが提起され続けている。ルーズベルトがここまで日本との戦争を望んだ理由は一体何のためであったのだろうか。「英国を助けるため」「満州から日本を追い出して権益を横取りするため」といった要素も確かにあるが、日本人があまりに気付いていない最大要素として「ソ連(共産主義)を助けるため」というものが存在している。ハルノートを執筆したハリー・D・ホワイト特別補佐官がソ連KGBの工作員であったことは前章で述べたが、元々左翼的体質にあった民主党はルーズベルトの登場によって完全なる「ソ連の傀儡政権」化していたのである。ルーズベルト政権以前の20世紀前半における米国では、ウィルソン政権を除けば全て共和党が政権与党となっており、マッキンレー、セオドア・ルーズベルト、タフト、ハーディング、クーリッジ、フーバーら共和党の歴代大統領は反共を政治的信条としていた。従って共和党政権下で鳴をひそめていたマルクス主義者は、マルクス主義的なニューディール政策を掲げるルーズベルトの大統領就任によってこぞって民主党に流れ込んだのだ。その中にはソ連を「心の祖国」と信じるようなソ連の工作員や協力者が多数混在していた。

 1928年に民主党大統領候補に指名されたこともあるアル・スミスは、ルーズベルトの前任のニューヨーク州知事であり、ルーズベルトを政界復帰させた立役者でもある。しかしこの民主党の大物スミスは、1936年1月に「ニューディールとはマルクスとレーニンのことである。問題は、ワシントンか、モスクワかの選択だ。我々はルーズベルトが民主党候補に再指名された場合、民主党を離脱する」という有名な演説を行い、結局ルーズベルトが再指名されると民主党内の反共(反ソ)の面々はスミスと共に離党するに至った。さらに民主党を支えてきたデュポンを始めレミントンやシンガーミシン、GMやモーガンなどの大企業・財閥もスミスと支持して反ルーズベルトに回ることとなった。かくして1936年以後の民主党には、ルーズベルトを支持する共産主義者と容共主義者しか残っていないという状況になってしまったのである。

 ルーズベルト政権下においては、公言をはばからない共産主義者であったヘンリー・ウォレス副大統領(後にトルーマンの対ソ対抗政策を批判して辞任し、極左ミニ政党「進歩党」を結成し大統領に出馬するも落選)や「スターリンの友人」として知られたハリー・ホプキンス商務長官(ルーズベルトとチャーチルの極秘会談内容をソ連に伝えていたことが後に発覚)、開戦前に国民党軍に爆撃機を提供していた大統領特別補佐官ロークリン・カリー(後に対ソ協力スパイの容疑告発を受けて南米に逃亡)など、その他ルーズベルトの周囲に集結していたマルクス主義者はあまりの多さにとても枚挙しきれないが、特筆するべきはアルジャー・ヒスの存在である。

 ルーズベルトの側近であった国務省高官アルジャー・ヒスは、ヤルタ協定の草案を作成し国連憲章を起草した人物だが、ソ連のスパイでマルクス主義者であることが1949年発覚し、スパイ及び偽証の罪で逮捕・起訴されている。結局スパイ罪は10年の時効が成立していたため、偽証罪で1950年に懲役5年の実刑判決を受けた。このヒスはルーズベルトやトルーマンの民主党政権における極秘書類のコピーをソ連GRU(ソ連軍参謀本部情報部)やMGB(KGBの前身)に流しており、ヒスの暗号名は「アリス」なるものであった。またヒスがモロトフらソ連指導者に対して「国連常備軍を創設して、その長官をソ連共産党の指名するロシア人にする」と密約していた事実は、当時全米のニュースでも報道されている。1945年にスパイ容疑でFBIに逮捕された元米国共産党幹部E・ベントレーは、民主党政権の中にソ連のスパイネットワークが2つ存在していることを供述しているが、つまりヒスやH・D・ホワイトはその中のメンバーであったのだ。

 1995年4月に米エモリー大学のH・クリア教授らがロシア公文書館でコミンテルンの膨大なファイルの中から民主党の対ソ協力者に関する重要文書を多数発見した。さらに翌年1996年3月に米NSA(国家安全保障局)が機密指定を解除したKGB暗号解読文「VENONA」ファイルによって、民主党ルーズベルト政権の中枢、ホワイトハウス、国務省、司法省、財務省、陸軍省、OSS(現CIA)等に300人以上のソ連のスパイ(共産主義者)が浸透していたことが明らかになった。ちなみに共和党内にソ連のスパイはほぼ皆無であった。なお、この「VENONA」ファイルにより、左翼お気に入りの〝冤罪被害者〟ローゼンバーグ夫妻が冤罪ではなく本当にスパイであり、原爆技術などをソ連NKVD(人民内務委員会秘密警察)工作員に渡していたことも立証されている。

 マッカーシズムと呼ばれたジョセフ・マッカーシー共和党上院議員によるレッドパージは、1950年から約4年間続いたが、あまりにも攻撃的であったために、反発した民主党や米リベラル層から激しく非難されてその影響力を失い、マッカーシーは、1957年48歳の若さで失意のうちに憤死している。しかしマッカーシーが正しかったことは「VENONA」ファイル等で完全に裏付けられた。対ソ封じ込め戦略を構築した米外交界の巨人ジョージ・ケナンは、その回想録の中で「1930年代末期に、米国の共産党員又はその手先が政府機関に浸透していたとの事実は、やがて登場する右派(マッカーシーなど)によるでっちあげなどではなかった」と述べ、当時の駐ソ大使館や共和党首脳が再三警告したのにルーズベルトは「まったく聞く耳を持たなかった」と嘆いている。ルーズベルトによる対日挑発は実はソ連による国際共産主義謀略の一環であったのだ。

 ルーズベルトからトルーマンへと至る当時の民主党がいかに多くの親ソ派マルクス主義者に支配されていたかについては、ルーズベルトの娘婿であるカーチス・B・ドールが『FDR:THE OTHER SIDE OF COIN』『EXPLOITED PRESIDENT』という2冊の著書で内部告発している。同書では、家族の食卓の場でルーズベルトが「私は決して宣戦なんかしない。私は戦争を創りだすのだ」と述べていた事実を明かし、「ルーズベルトは国際共産主義者のロボットだった。日本を開戦へと追い込んだのは全てソ連である」と断じている。ルーズベルトと民主党がその容共体質のために、ソ連に操られて日本へ謀略を仕向けたことも、こうしてルーズベルトの娘婿の告発や『VENONA』ファイルによって完全に立証されたのである。

 ルーズベルト政権で司法長官を努めていたF・マーフィー(後に最高裁判事)は、非米活動調査委員会で「共産主義者がルーズベルトとその夫人を操っていた」と証言しており、対日戦争はソ連のシナリオであったと認める報告書を提出している。米国保守の論客として高名なミシガン大学法学博士アン・コールターは、自著『リベラルたちの背信〜アメリカを誤らせた民主党の60年』で「ルーズベルト政権はモスクワに金で雇われたスパイだらけだった。ホワイトハウス、国務省、戦争省(後の陸軍省)、戦略事務局(OSS)、財務省の戦略的に重要な地位をスターリンの手下が占めていた。(小略)この謀略のスケールの大きさと言ったら前代未聞だった。1940年代から50年代にかけて政府には何百人ものソ連のスパイが潜入していた。敵国に忠誠を尽くす民間人の軍勢にアメリカは侵略された。それは否定の余地がない事実だった」と述べ、「この国が必要としていたのは、ジョー・マッカーシーだった」と断じた。また1996年4月、民主党寄りでリベラル系メディアの代表格であるワシントン・ポスト紙でさえも「マッカーシーは正しかった。リベラルが目をそらせている間に共産主義者は浸透していった」という見出しで、「VENONA」ファイルを指して「反共主義の人々が批判したとおり、ルーズベルト、トルーマン両政権には、ソ連に直接又は間接に通謀していたおびただしい数の共産スパイと政治工作員がいた証拠である」と報じている。

 共和党の下院議員であったハミルトン・フィッシュは自著の中で、「ルーズベルトは民主主義者から民主主義左派・過激民主主義者を経て、社会主義者、そして共産主義支持者へと変貌していった」と述べており、真珠湾攻撃における米上下院議会の対日開戦支持について「我々はその時の支持全てを否定しなければならない。なぜならば、真珠湾攻撃の直前にルーズベルトが日本に対し戦争最後通牒(ハルノート)を送りつけていたことを、当時の国会議員は誰一人知らなかったからである」とも述べている。

 またハミルトン・フィッシュは、同著で当時の共和党下院議員の90%が日本との戦争に反対していた事実を明らかにしており、ハルノートを指して「これによって日本には、自殺するか、降伏するか、さもなくば戦うかの選択しか残されてなかった」と強く批判し、「日本は天然資源はほとんど保有せず、また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に直面していた。天皇は名誉と平和を重んじる人物で、戦争を避けようと努力していた。日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。それは、お互い同士よりも共産主義者の脅威を怖れていた日米両国にとって悲劇的だった。我々は戦争から何も得るところがなかったばかりか、中国を共産主義者の手に奪われることになった」とも述べている。ちなみにフィッシュは戦時中も「米国の敵は日独ではなくソ連だ」と主張し続けていた為に、アメリカに潜入していた英国の対米プロパガンダ工作機関「イントレピッド」による中傷工作を受けて1944年に落選に至っているが、アメリカにとっての真の敵は日本ではなく共産主義であって対日開戦支持は否定されるべきであることを、共和党下院の大物が公に認めていたことを忘れてはならない。

 ルーズベルトの後継者である民主党のトルーマン大統領が日本へ計18発もの原爆投下を承認していた事実はワシントン・ポスト紙にスクープされているが、この決定を最初に下したのもルーズベルトである。小心かつ実務経験に乏しかったトルーマンは、ルーズベルトが決定していた方針に一切手を加えずに単にそのまま実行したのだ。ちなみに京都が空襲から除外されたのは「文化財の保護」なんかではなく、原爆投下の第一候補であった為に、破壊力データを正確に取るために温存されたに過ぎない。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスチムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなに恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

 こうしてかねてより共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、1945年7月に先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の2日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。原爆投下についても米国の総意ではなく、賛否両論の2つの考え方がこの両党間で対立していたのだ。つまり、もし当時の大統領がトルーマンではなく共和党の大統領であったなら、おそらく原爆投下もなかったであろうということである。アイゼンハワーは、大統領在任中1955年1月にルーズベルトを強く批判して「私は非常に大きな間違いをしたある大統領の名前を挙げることができる」と述べ、ルーズベルトが対日謀略を重ねて日米開戦を導いたこと、日本へ不必要な原爆投下の決定を行ったこと、ヤルタ協定で東欧をソ連に売り飛ばしたことなどを挙げて非難している。

 ソ連のスパイであったアルジャー・ヒスが草案を作成したヤルタ協定は「ソ連の主張は日本の降伏後、異論なく完全に達成されることで合意した」と定めているが、1956年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による日本の北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出した。ヤルタ協定が共和党政権によって完全に否定され無効とされたことで、ソ連の北方領土占有(ソ連はヤルタ協定を根拠に正当性を主張)は、一切の根拠を失った不法占拠であることが公式に確認されたのである。

 また日本の敗戦時に、ソ連はヤルタ協定を口実にして北海道まで占有しようと欲し、トルーマンも一旦それを内諾したものの共和党の猛烈な反対を受けて考え直し、渋々ソ連に断ったという記録が残っている。一般に「蒋介石が日本分割に反対した」というデマが流布されているが、蒋介石はカイロ会談で「九州がほしい」と要望しており、またアメリカに対してそれだけの影響力を持っていなかった。日本が米ソ中に分断統治されなかったのは、ひとえに共和党の反ソ派や知日派が「ソ連の日本占有は許さない」と強固に反対したおかげなのだ。それどころかフーバー元大統領に至っては、「日本はアジア防共の安定勢力であり、戦後も朝鮮と台湾の日本領有を認めるべきだ」と主張していたぐらいなのである。

 共和党大統領候補への野心を持っていたマッカーサーは、朝鮮戦争において中朝共産主義連合軍に対して原爆使用を主張し、トルーマンと激しく対立して解任されたが、1951年の米上院議会外交委員会において「日本の戦争は安全保障のためであった」と証言したのも共和党の基本認識に沿ってのものである。マッカーサー証言の内容は、前述のハミルトン・フィッシュの著した歴史観と完全に一致している。また、朝鮮戦争時には共和党議員の多くが「日本への原爆投下は誤りであり、朝鮮戦争でコミュニストに対して使用するべきである。さらに中朝軍を撃退して中国本土まで国連軍を侵攻させ、中共政権を打倒して国民党政権を復活させるべきである」との主旨を主張していた。共和党をバックにしてマッカーサーも同意見を声明しており、これもまた中共との平和を希求するトルーマンを激怒させ、解任理由の一つとなったのである。従ってもし当時アメリカが共和党政権であったならば、今頃は中国共産党政権は存在していないかも知れない。

 共和党の歴史認識、つまり共和党史観を代表する一例として、先の大戦のアメリカ中国線戦総司令官A・C・ウッディマイヤー大将の回想録を以下に引用しよう。「ルーズベルトは中立の公約に背き、日独伊同盟を逆手にとり、日本に無理難題を強要して追い詰め、真珠湾の米艦隊をオトリにして米国を欧州戦争へ裏口から参加させた。(小略)米英は戦闘には勝ったが、戦争目的において勝利者ではない。英国は広大な植民地を失って二流国に転落し、米国は膨大な戦死者を出しただけである。真の勝利者はソ連であり、戦争の混乱を利用して領土を拡大し、東欧を中心に衛生共産主義国を量産した。米国は敵を間違えたのだ。ドイツを倒したことで、ナチスドイツ以上に凶悪かつ好戦的なソ連の力を増大させ、その力は米国を苦しめている。また日本を倒したことで、中国全土を共産党の手に渡してしまった。やがて巨大な人口を抱える共産主義国がアジアでも米国の新たな敵として立ちふさがるであろう」。ロバート・A・タフト共和党上院議員の親友であったこのウェディマイヤー大将は、日本開戦に反対していた人物で、原爆投下にも反対し、戦後は『第二次大戦に勝者なし』と主張する回想録を発表している。そして実にこの見解こそが共和党史観のベースに存在しているのだ。

 ちなみにフーバー以前の時代に遡って鑑みるも、1895年に日本がいわゆる「三国干渉」を受け屈従を呑まされた時、民主党のケリーブランド大統領はそれに一切関わろうとはしなかったが、一方しかし共和党は「三国は日本のシナに対する勝利がもたらした合法的果実を否定する干渉を行った。日本は特権を求めず全ての国に平等な権利と機会を保証しようと試みた。一方、欧州列強は自国の利益のためだけにシナの領土を取り上げ、他の全ての国々に対する排他的権利を得る条約と(日本の)譲歩を獲得した」との声明を出し、とりわけロシアとドイツを強く非難している。

 また日露戦争の最中、1904年3月26日にホワイトハウスを訪れた金子堅太郎特使に対して共和党のセオドア・ルーズベルト大統領(F・D・ルーズベルトの叔父)は、中立表明をした筈のフランスがロシアに軍需品供与をしていることについて米国が抗議したことを伝え、重ねて「実はこの戦いが始まって以来、米国の陸海軍武官の中に同情を寄せる者が多く、甚だしきに至っては官を辞して日本軍に身を投じようという者さえいる。かく言うルーズベルトは日本の盟友である。今後の戦争で君の国を負けさせたくない。ぜひ君の国を勝たせたい、いや必ず君の国は勝つ」と語っている。そして金子特使から贈られた新渡戸稲造の『武士道(英文訳)』に深く感銘を受けたセオドア・ルーズベルトは、同書を30冊取り寄せ、5冊を5人の息子たちに与えて「この武士道をもって心得とせよ」と命じ、残り25部を主要閣僚や共和党幹部に配っている。(ちなみにブッシュはこのセオドア・ルーズベルトを尊敬し、その伝記を愛読している。)

 日露戦争後から共和党セオドア・ルーズベルト政権は世界各国との戦争を想定してプランを立案し、その中には対日戦争計画オレンジプランもふくまれていた。しかしこれは英国まで含めた主要国全てを対象(各国ごとに別のカラー名)にして立案された安保上のものであり、日本だけを想定して狙ったものではなかった。このオレンジプランを指して「アメリカは半世紀も前から対日戦争を計画していた」と評する意見もあるが、私はその説には賛同できない。同プランは議会で立法化されたり閣議で正式決定されたものではなく、安全保障とし軍部が研究を命じられたものであり、日本一国だけを対象にしてはおらず、いわば世界主要国と「米国がもし戦わば」といった防衛シュミレーションであることから、これは戦争が日常的であった当時の独立国としては自然な安保対策である。アメリカが対日戦争を計画したのはF・D・ルーズベルトの大統領就任以降であり、セオドア・ルーズベルトからフーバーへと至る時期にはそんな謀略は一切存在していない。

 それどころかセオドア・ルーズベルトの前任であったウィリアム・マッキンレー共和党大統領は「米英日が同盟して露独仏に対抗する」という構想を描いており、マッキンレーのブレインといわれたW・ラフィーバーは1898年3月にニューヨーク・トリビューン紙上で「(シナにおける)露独仏の支配は専制・無知・反動を意味するのに対し、日本の支配は自由・啓発・進歩を意味する」と述べて米英日の連携を訴えている。しかしキューバ及びフィリピンでの紛争の対処に追われたマッキンレーは、結局この米英日三国同盟構想に着手することなく1901年9月にアナーキストの凶弾に倒れ、この三国同盟は幻の構想に終わった。このマッキンレー構想は日本人にもあまり知られていないが、共和党が当時日英両国をパートナーとする三国同盟を考えていたこと、そして今日ブッシュ政権が「米英日三カ国で世界新秩序をつくる」と明言していること、この事実は共和党の国際戦略が一環した発想の下に一世紀以上継続されていることを裏付けている。

 このようにマッキンレーやセオドア・ルーズベルトなど共和党政権が続いている期間は、日米間の軋轢はほとんど生じなかったのであるが、理想主義リベラルと言われる民主党ウィルソン大統領あたりから日米間の不和が表面化し始めた。ウィルソンはかの悪名高き禁酒法や組合保護法・労働時間制限法を導入した左派であり、国際連盟創設を主唱した人物だが、実は強烈な黒人差別主義者でもあり、日本が提議した人種差別撤廃決議案を強引に却下した張本人である。それまで比較的友好的であった日米の歯車が逆回転し、深刻な日米関係の歪みと日本の孤立化を生んだのは1921年11月のワシントン会議ではないだろうか。ワシントン会議を主宰したのは「米国史上最も無能な大統領」と言われるハーディング共和党政権だが、同会議開催方針とその主目的である日英同盟破棄は、ハーディングの大統領就任(1921年3月)のその前にウィルソン民主党政権によって決められており、英国への根回しも完了していた。ポリシーのない金権政治家であったハーディングには、その既定路線を変更する意思も思想もなく、いくら共和党でもダメな人物も存在しているということだ。

 このワシントン会議において日本は、日英同盟を破棄させられ、軍艦比を米国5に対して日本3にさせられ、青島や膠州湾のシナへの返還、満州の日本権益を認めた「石井・ランシング協定」の破棄、その他屈辱的な条件を呑まされるに至った。ウィルソン政権が狙ったワシントン会議の主要な目的の一つは、中国や満州から日本を追い出してアメリカの権益を拡大することであり、一方、米国立公文書館の公文書ナンバー「JB355」には、民主党ルーズベルト政権が開戦を欲して日本を挑発し続けた目的の一つは「中国から日本を追い出して、将来の巨大な中国市場を独占的に確保するため」でもあると明記されている。何のことはない、クリントンを見ればよく分かるように、昔も今も民主党のアジア戦略はまったく変わっておらず、何の進歩もしていないのだ。

 一方おそらく確実であろうと推測できることは、もし大戦前の当時のアメリカが共和党政権であったら、シナの赤化やソ連の台頭を防ぐために日本の率直な対話は可能であり、石油禁輸もハルノートもなく従って日米開戦には至らなかったであろうということである。共和党が日本とは戦いたくないと願っていたことは確かなことだ。しかし現実にはルーズベルトの謀略で日本が真珠湾を攻撃してしまったために、共和党も戦争以外の手段はなくなってしまったのだ。自国領を攻撃された以上はもはや是非もない。「共和党員と民主党員、他国への不干渉主義と干渉主義の激しい論争も、今となっては無意味なものになった」(J・トーランド)のである。我々日本人はこの歴史的事実からどれだけの教訓を得たのか、いやそれ以前に、共和党が対日戦争に反対し続けた事実自体をどれだけの日本人が知っているのだろうか。我々は「アメリカは日本を戦争へと追い詰め、原爆を投下し、日本に対して幾つもの罪を犯した」というメンタリティを、「民主党は日本に対して幾つもの罪を犯した」という定義に置き換えるべきなのである。

 共和党系シンクタンクのフーバー研究所は、フーバー元大統領がその最晩年の1960年に「米国を共産主義から守るための研究所」として私財を投じて創設した機関である。1992年にこのフーバー研究所は、外交官J・マクマリーが1935年に記した「マクマリー・メモランダム」を出版している。このメモランダムはいわば「アメリカ(ルーズベルト政権)の対日対中政策への批判」といった内容で、例えば「日本人は、天然資源の乏しい小さな島にぎっしり密集して住んでいる。日本は、東アジアを除く全ての市場からかなり遠く離れているし、狭い海の向こうから二つの国、中国とロシアから過去に威嚇を受けてきた。日本人は、それを彼らの生存そのものの脅威だと、いつもみなさなければならないのである。日本にとって、原材料輸入と輸出市場としての中国が、産業構造を維持し、国民の生計を支えるために不可欠なのである」と述べて日本へ対して寛容であるように説き、一方で「我々の対中政策は、何年もの間、中国にゴマをする実験をやったあげく、突然に行き詰まってしまった。この事実は、日本と正常な関係を保つよう願っている善意のアメリカ国民たちの忠告に十分耳を傾けるべきだという、警告として立派に役立つであろう」とも述べ、結論として「日本には媚びもせず挑発もせず、公正と共感を持って対処しよう」と主張している。

 日米開戦に反対した共和党元大統領の名を冠したフーバー研究所が、60年近くも前の一外交官の手記を出版した真意は何であろうか。それはアメリカにとって、対日・対中戦略において二度と同じ失敗は繰り返さないという、共和党の意思が示されているものと私は考えている。この手記の出版に際してフーバー研究所は、その解説文として当時の国際状況を「中国はボルシェビキ(共産主義)と幼いナショナリズムの影響を受けて、狂乱のヒステリックな自己主張に駆り立てられていた」「仲間同士(日米)が傷つけ合ったのが実態」と付記しており、それは明らかに現在の中共を暗喩している。前出のジョージ・ケナンも、この「マクマリー・メモランダム」を絶賛しており、その講演の中で「これらの地域(シナ・朝鮮半島)から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人々が終始我々に警告した通りの結果となった。今日我々はほとんど半世紀に渡って朝鮮及び満州方面で日本が直面し担ってきた問題を引き継いだのである」と述べ、防共と安全保障に基く当時の日本の立場はそのまま現在の米国の立場となったことを認めている。共和党の対日方針とは昔も今も、まさにこの60年前の「マクマリー・メモランダム」が提唱するごとく、「日本には媚びもせず挑発もせず、公正と共感を持って対処しよう」なのだ。

 前述のように、民主党F・D・ルーズベルトの叔父ではあっても共和党の大統領であったセオドア・ルーズベルトは、日露戦争で日本を支援して講和を斡旋し、東郷元師を尊重し、教育勅語や武士道精神を高く評価するなど、親日的なスタンスを示していた。そのセオドアの政治的遺伝子は、以降も共和党歴代大統領に受け継がれている。日系人強制収容に初めて公式謝罪したフォードも賠償したレーガンも共和党であり、占領憲法制定を初めて公式に日本の国会で謝罪したニクソンも当時アイゼンハワー共和党政権下の副大統領であった。この事実は、もしアメリカが原爆投下や東京裁判を謝罪するとすれば、それは共和党政権であるというジンクスを示唆している。ちなみに1983年5月27日、日本海海戦の戦勝記念日であるこの日に渡米した中曽根首相を、レーガン大統領は「軍艦行進曲」の演奏で迎えたが、ホワイトハウスで日本の軍歌が演奏されたのはこれが最初である。米大統領がドイツの首相をナチスの軍歌で迎えることは決してあり得ない。共和党の対日史観とは、「大東亜戦争肯定史観」とまではいかなくても、日本の自衛による立場を理解したる「大東亜戦争容認史観」といったところなのだ。

 20世紀の百年間、日米英三国同盟を夢見たマッキンレーに始まり、日露戦争講和を仲介したセオドア・ルーズベルトを経て、「日本はアジア防共の砦だ」と終生主張していたフーバー、そして「強い日本の復活」を待望する現ブッシュ政権に至るまで、共和党はいつも日本の立場に理解と共感を持って接してきた。その一方、ワシントン会議のレールを敷いたウィルソンに始まり、ソ連に操られて日本を追い詰めたルーズベルト、原爆を投下し東京裁判を強行したトルーマン、中共と結び対日経済戦争に狂奔したクリントンに至るまで、民主党は常に日本を敵視し警戒し抑えつけようとしてきた。これらの歴史が物語る真実は、この二大政党の対日観や共産主義に対する姿勢がまったく正反対であるということなのだ。そして、かつてGHQ内部で熾烈な路線対立を繰り広げたストロングジャパン派(共和党)とウィークジャパン派(民主党)が、今なおアメリカを二分して存在しているという現実を日本人は決して忘れてはならない。

 日米開戦前における日本政府の最大の失敗は、ルーズベルト政権の与党たる民主党だけを相手として共和党との交渉を考えもせず、つまりアメリカという国を一括りに見て「アメリカは二つ存在する」という視点を持たなかったことにある。私は小室直樹博士とお会いした時に、日米開戦に至る日本外交の最大の失敗は何かと質問したことがあるが、小室博士の答えは一言明確に「アメリカのもう一つの世論を研究せず、ルーズベルトやハルだけを相手にしたこと」であった。まさしくその通りである。

 そして現在においても、反米か親米かの二元論でアメリカに相対する人々は、この「歴史が教える教訓」に全く学んでいないのだ。右だろうが左だろうが、今も大半の日本人が「二つのアメリカ」の存在をおそらく知らない。反米か親米かの立場でしかアメリカを見ようとしない日本人は、現実の目ではなく、観念の目を通してアメリカを見ているのだ。それは日本が再び過ちを繰り返す最大の要因でもある。

日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 深田匠著

愛する祖国 日本 > 資料室 > 日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 / 深田 匠 > 米国二大政党の異なる対日関係史 リンクフリー